昼前のやわらかい陽は水面をすべるように降りしきり、川沿いを走る葉柱にも春を実感させた。
春先の土曜日、休日の呼び出し。携帯の向こうの声はいつもと変わらず。部員の部屋に泊まっていた葉柱はやれやれと言う体で(それでも浮き足立つような気持で)この蛭魔の部屋へバイクを向けたのだった。
ドアノブに手をかけると、冬と違って冷たさが和らいでいるのに気付いた。勝手知ったるもので適当に声をかけるだけで上がり込む。
蛭魔は部屋の入り口に背中を向けて何やらまたノートパソコンをいじっていた。
「何で制服なんだよ?」
ちらりとこちらを振り返り、制服姿の葉柱を見て一瞬眉を顰める。蛭魔が不機嫌そうにしていることなんて別に珍しくもないので葉柱はそう気にも留めない。オールだったから、と短く答えて、蛭魔の斜め後ろのソファに座った。
前の日の宵口、葉柱の携帯に部員から電話が入った。飲み会をしているから来いと言う。場所もそう遠くなく、電話をかけて来たのはごく気心の知れた同級生だった。どこか浮き足立つような春の宵だと言うのに退屈で欠伸を繰り返していた葉柱は、着替えもせず渡りに舟とばかりに揚々と出かけたのだ。
……結果、葉柱らしくもなくついついペースを上げすぎてしまい、酩酊した。そう言う時に付き物のろくでもないことも……あるにはあったが、とりあえず、吐く倒れるの醜態をどうにか晒さなかったことだけがありがたい。空も白みかける頃にやっと解散となり、家へ帰るのは無理だと言うことで、電話をかけてきた同級生の部屋に泊まり込んだのだ。
そこへ、蛭魔からの呼び出し。
「なぁ、用事は?」
蛭魔は振り返らない。
「もう少し待ってろ、これ終わらせる」
「はいはい」
終わってから呼び出せばいいのに、と葉柱は思うが口には出さない。別に今さら言うようなことではなかったし、昨夜飲みすぎたことはともかく、今日の葉柱は機嫌がよかった。
葉柱はこの季節が好きだ。騙し騙し暖かい日と冷え込む日を繰り返し、ようやく落ち着いて春めいた、と思ったら何日か後にはすぐに辺り一面があかるく彩られている。特に花を愛でるような趣味があるわけではなかったが、いつも通る道の植木が花をつけていたりすると、春だなと思う。街を行く人々の浮き足立つ気分が伝染するようで、わけもなくばかに明るい気分になったりするのだ。
その葉柱へ、向こうに向き直ったまま、蛭魔が横顔で言った。
「オールで飲んでたなんて珍しいな。誰と?」
「……部員と」
ふぅん、と短い返事が聞こえて、キーの音は止まない。ほんの少し罪の意識を感じて、葉柱は我知らず眉を顰めた。
部員と、と言うのは半分嘘だった。
半分と言うのはつまり、一緒に飲んだメンバーに部員以外の人間…… 他校の女生徒が混ざっていたと言うことだ。短いスカートに、濃い目の化粧、赤く染めた髪を全員が同じように巻いていて。葉柱を入れた賊学のアメフト部員と同じ人数、異様に高いテンションと、投げかけられる賑やかな会話。つまりそれは、合コンと言う席だった。
勿論、そうと知ってたら行かなかったさ。行くはずもない。誰にともなく心中で断りながら、葉柱は蛭魔の後姿を見遣る。見慣れた肩のライン。葉柱は申し訳なく思う。
ただ「今みんなで飲んでる」とだけ言われて、出かけた。着いてみれば電話をかけてきた部員が肩をすくめて、両手を顔の前で合わせた。どうにも一人が春先の風邪で欠席になったらしい。人数合わせで座ってるだけでいいから、なんて言うので、元より面倒見のいい葉柱のこと、そのまま帰るわけにも行かず、付き合うことにした。飲みすぎてしまったのは無理やりにでもテンションを上げる必要があったからだ。葉柱はこれで、和を乱すことを良しとしない。そして席は夜遅くまで続いて……。
葉柱は、斜め前で作業をしている蛭魔の背中に向かって、ごめん、と心の中で謝った。その気はなかったにしてもしてしまった裏切りと、加えて、嘘をついた罪悪感。
けれど、わざわざ「昨日合コンに行ったんだ!」なんて明るく話した方が良いなんて道理はない。あくまで結果としてああなってしまっただけで、蛭魔を裏切る気持は微塵もない。この場合は嘘も方便と言うやつでは、ないだろうか。
育ちのこともあって呑気鷹揚な部分のある葉柱は、蛭魔から電話がかかってきた瞬間から、昨日のことは忘れてしまうことに決めていた。ろくでもないことにはなったのだが、話してわざわざ蛭魔を嫌な気分に――ならないとは思うが不安に――させることはない。合コンに引っ張り出されようが何だろうが、どうせ自分には蛭魔しか見えていないのだから、と。
蛭魔はカタカタと小気味よい音を立てて何事かをノートパソコンに打ち込んでいる。まったく春もなにもあったものではない。そんなに仕事ばかりしていたらすぐに春なんて終わってしまう。どこかへ連れ出そうかと、二日酔い気味の頭で葉柱は考える。
伸びと欠伸を同時にしながら、葉柱は窓の方を見遣った。春の陽はこの部屋にもしっかりと降り注いでいる。穏やかな日和だった。うらうらと暖められた空気が満ちて、眠気を誘うようだ。時間を見てみると、ちょうど正午。そう言えば今朝は何も食べていない。すぐ近くにコンビニがあるのを思い出し、葉柱は体を起こした。蛭魔にも訊いて、昼食を買って来よう。
「蛭魔、お前もなんか食べ……」
立ち上がりかけた姿勢のまま、葉柱は絶句した。
蛭魔は、泣いていた。
キーを叩く手は止めないまま、声もなく涙を流している。しゃくりあげすらせずに、ただ東雲のような色をした目を涙でいっぱいにして、蛭魔は静かに泣いていた。
あまりのことに数秒間その場で停止してしまったが、気を取り直した葉柱は慌てて蛭魔の正面に座り込む。蛭魔は億劫そうに顔を上げ、葉柱に目を合わせた。
「何だよ、まだ終わって……」
「どうしたんだよっ!? 何で泣いてんだ!?」
蛭魔ははっとした顔をして、手の甲で涙を拭う。随分と涙を流したのか、白い肌の、両目の端だけが赤くなってしまっている。葉柱はどうして良いのかも分からず、ただ蛭魔の顔を覗き込む。目が合うと蛭魔は眉根をぎゅっと寄せて葉柱を睨んだ。潤みきった目ではいつもの迫力はなく、逆にひどく悲痛な表情になる。流れる涙を拭いながら、蛭魔は口を開いた。
「だって、お前がっ……」
葉柱は打たれたように肩をすくめた。
だって、お前が。
蛭魔は知っていたのだ、きっと。誰も知りえないような情報だって、蛭魔はいつも掴んでいた。葉柱は確信する。蛭魔は昨日のことを全部知っていて、その上で今日ここに自分を呼んだのだ。なのに自分は、嘘をついた。
「ごめん、蛭魔、でも全然そんなつもりじゃなくて!」
「じゃあどんなつもりだったんだよ!?」
蛭魔はなおもぼろぼろと泣いている。
「違うんだ、あの子すごい酔ってて、俺も酔ってたから、いや違うんだ、そんなんじゃなくて、そりゃキスはされたけど別にあの子のことも何とも思ってないし、あの子だって多分その場の勢いだったんだよ! だから別に俺は全然そんなつもりはなくて! ごめん!」
葉柱は一気にまくしたてた。
ろくでもないこと、と言うのはつまりそう言うことで、相手の少女の中の一人が葉柱に目を付け、酔った勢いに任せて不意打ちで葉柱にキスをしたのだ。キスの一つや二つで騒ぐような時世でもなし、だから彼女も勢いに乗ったのだろう。けれど葉柱にしてみれば、自分にその気が全くなかったとは言えそれは蛭魔への裏切りに他ならなかった。
現に蛭魔は泣いて自分を責めている。あの蛭魔が人前で涙を見せるなんて、なんてことをしてしまったんだろうと葉柱は自分も泣きたいような気持になってしまう。蛭魔の長い睫毛が涙に濡れて、重そうに先を垂れていた。
蛭魔はもう一度涙を拭って、ゆっくりと口を開く。
「……だって、お前が……、」
葉柱は途方もなく神妙な気持で蛭魔の言葉を待つ。
「お前が……」
「……」
蛭魔はいつにない涙声で言葉を詰まらせる。葉柱は何も言えない。ただひたすら後悔した。沈黙が空間を埋める。のどかな春の陽が、蛭魔の濡れた頬を撫でている。なにか春の鳥が楽しげに鳴く声がして、それは二人の間に漂う緊張感にひどく不似合いだ。
たっぷり十秒以上の間をおいて、蛭魔は漸く、きっぱりと言い放った。
「お前が、その長い学ランに花粉つけて入って来るからだ!!」
「…………………………え、えぇ!?」
ほけきょう、とタイミングよく鳥の声。
蛭魔はポケットから目薬を取り出して両目に一滴ずつ点し、これ以上ないくらい不愉快そうにノートパソコンを閉じた。空調のスイッチを入れておいて、葉柱を置き去りに洗面所の方へ行こうとする。葉柱は我に返り、おろおろと立ち上がった。
「蛭魔、花粉って……」
「近づくなこの糞スギ花粉が! そんな格好で外うろついてたら花粉がつくに決まってんだろ!? 俺の部屋に花粉を持ち込むな!!」
糞スギ花粉。そんな呼び名は初めてだ。いやそれよりも。
「花粉症だから泣いてたのか!?」
「当たり前だバカ! 俺は目に来るんだよ!」
「で、でも『どんなつもりだったんだ』って……」
「お前が何か勘違いしてるみたいだったからカマかけたんだ!」
「嘘泣きだったのかよ!?」
「嘘じゃねぇ、か・ふ・ん・しょ・お!」
わぁわぁと怒鳴り散らしながら蛭魔は洗面所に着き、不機嫌極まりないといった体で顔を洗った。何だか置いてけぼりにされた葉柱はどうにかこうにか事態を飲み込んで、タオルを引っ張り出す蛭魔を見ていた。涙を流していたのは、ただ単に、花粉症で。
ふと気付き、葉柱は青くなる。嘘泣きの蛭魔を見て早とちりして、余計なことまで言わなかったか。
「あの、蛭魔さん?」
「何だよ」
やっと落ち着いたらしい蛭魔が、それでも棘を含んだ調子で返事をする。距離が遠いのは気のせいではないだろう。何しろ葉柱は今、糞スギ花粉なのだ。
「酔ってキスされたのは、あの、本当に、そんなつもりじゃないから」
「あ? 別に誰もそんなこと訊いてねぇよ。どうでもいい」
それよりお前、その学ラン玄関の外に置いて来いよ。眉を顰めて蛭魔が言うのに、葉柱は呆気にとられた。
「どうでもいいって、どうでもいいのか!?」
急に大声を出した葉柱に蛭魔は少し怯む。
「……何か悪いのかよ?」
「だってオマエ、そんな、俺キスされたのに!? どうでもいいの!?」
蛭魔は頷き、葉柱はうな垂れる。
そのことで蛭魔が泣いているものだとばかり思っていたから、余計にショックだ。自分は「蛭魔を裏切ってしまった」と感じていたのに、蛭魔にしてみれば自分がどこで誰にキスされようがどうでもいいと言うのか。元はと言えば黙ってキスなんてされてしまうまで飲んだ葉柱が悪いのだが。嘘泣きに踊らされた上に、ひどい仕打ちだ。
しょげ返っている葉柱を暫く見ていた蛭魔が、ひとつため息を吐く。目薬がよかったのか顔を洗ったからかはたまた空調が効いてきたのか、もう目は潤んでいない。
「昼飯、買って来いよ。そのために呼んだんだ」
「……はいはい」
「今度はそれ脱いで入って来いよ」
「分かりましたよ!」
「あのな、」
誰がどう聞いても自棄を含んだ葉柱の言い草に、蛭魔は少し笑う。
「誰にキスされようが、お前は俺のところに帰って来るだろ?」
だから、どうでもいいんだよ。
蛭魔の目は、濡れていない。洗面所もまたあかるい光に満ちていて、窓の外はあたたかい風、晴天、花粉日和の春だった。
エイプリルフールなので嘘のお話……の、はず。
まぁ葉柱さんはヒル魔先輩にはかないませんヨと言うことです。嘘吐くのもヒル魔が上手さ。
それにしても、ヒル魔が花粉症とかありえませんよネ。ろくろく試合もできないじゃない。
*時々こそこそとお伺いしている夏路笙子様のサイト『ナツロジ』さんの、
エイプリルフール企画のフリー小説さんですvv
こんなにも可愛くて、でも、結構おモテになる、
面倒見のいい男臭い葉柱さんが、本当にオ素敵で、
矢も盾もたまらず、貰ってきてしまいましたvv
嬉しい企画と素晴らしい作品をありがとうございます。
大切にしますね?

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